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礼拝にようこそ、主がどんなにお喜びくださることでしょう。
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 主は、立ち止まって2人の盲いを憐れみ、彼らの目に触られた。
するとすぐさま、彼らは見えるようになった。
私たち、いや私も盲いであって、どうか、主イエスにより頼み、
願って目を開いて頂けるようにして下さい。
 主イエスの業と力は、本当に本当のことでした。
それは今も変わりありません。
 
 主イエスは、福音を伝えなさいと命じられました。

 私たちは、その福音を伝え、そのことによって人々を救いに導き、そして、わたしたち自身が大きな恵みを手にすることができる。
このことは、真理であって、奥義です。 
 私たち(私)はすでに、キリストを信じることによって、救われ、

新しい命を与えられましたが、更に大きな輝きを得ることが
できるということです。
私の魂は、それを真理であると感じています。
 
 科学は真理をつかみ取ることはできないと思います。
どこまで自然の摂理を解き明かしていこうと、
その奥に立ちはだかる壁を打ち破ることはできないでしょう。
主イエスの真理は、すべてを凌駕するということを、
いずれ、すべての人が知ることになると思います。

 
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 裏切りによって、ついにその時はきた。イエスは大祭司カヤパのもとに
引き出された。祭司長らと全議会は、イエスを死刑にする為に、
偽証を集めようとした。最後に呼ばれた証人がこう言う。 
 「この人は、「わたしは神の神殿を壊して、それを3日のうちに建て直せる。
」と言いました。」 これは、主イエスが十字架につけられ、3日目に
復活する、そのことを意味しているのだが、知るべくもない。
 「人間は、傲慢になると目が見えなくなってしまう。傲慢になると本当に
恐ろしい。」と牧師。たくさんの偽証者、大祭司らのねたみ、
そねみや憎しみの中、主イエスの言葉、「あなたの言うとおりです。
なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、
力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見る
ことになります。」(26:64) 
 彼らは、イエスにつばきをかけ、殴りつけ、また平手で打った。
不信仰者の私は、主イエスの神のみわざに疑問を持ち、傲慢になる。
こんなに生き生きと、希望のうちに自分の力で生きているぞと。
 けれど、このまま傲慢で不信仰で、自尊心に満ち、結果がついて
来れば良いが、世の中、甘くはない。
 夢破れ、倒れた時に、誰が救ってくれるだろう。癒してくれるだろう。
過去の自分を忘れている。喉元すぎれば何とやらだ。
悪い意味で楽天家なのだ
クリスチャンとしてなら、
何か発信できるかもしれない。
自分の醜さを意識せず、苦しみも、怖さも、
感謝と喜びに変えて生きていけるかもしれない。
なぜかって?
主イエスは、すべてを許してくれるからです。
そしてあなたも・・・
もし、あなたがその苦しみを、
苦しんでいるんだと自覚できたなら、
その救いの道を、新たな自己改革との、
際限のない戦いに向けるかわりに、
イエスキリストを知ることに向けるならば、
もしかしたら、
あなたも救われるかもしれませんよ。

生かされている事に感謝しなければ、希望は生まれないのではないか?
と思います。キリスト者としては、失格でしょう。どうしてくだらない野心や、恋心にこうも囚われてしまうのか、信仰者として(偽善者でもいい)少しは生きてみたいのです。だから、感謝できなければ、現実と想いとのギャップに絶望していくでしょう。
 絶望は死を呼びます。だから、現実に囚われず、結果に囚われず、感謝していきます。すべてに。神様、すべてに感謝します。主イエス様、すべてに感謝します。キリストの内在を信じます。私自身の力と、知恵と、喜びを凌駕して、あなたの力と知恵と喜びが与えられますことを信じます。

幼い子供を見守るように、私たちの一週間を愛し、守って下さる神様です。神の愛に見習いたいと思わなければ、礼拝出席する意味がありません。神さまの愛を学ばせて頂くことは、クリスチャンの使命です。聖書は命の文です。単なる学問であるなら、パリサイ人と同じになってしまいます。ペテロが神様から与えられた知恵とは、人を愛する知恵でした。
 「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(使 10:35)
 神様に間違ってないよと言ってもらいたい、そのように神を恐れかしこんで暮らしても、間違いだらけの私たち。だから、悔い改めて罪の赦しを請うのです。人なんてろくな心を持っていない、常に正しい心を持った人はそういない。だから、人を恐れる必要などなく、神様を恐れましょう。信仰があるふりをするのは、パリサイ人のことです。クリスチャンは、聖書のみことばを頂いて、そのみことばを一日心に抱いて過ごすのです。
 キリストによってまったく変えられたいと、そう思う人を神様はきっと変えて下さるでしょう。
 パウロの人生は、神の恵みと赦しの典型でした。他の人たちは、彼に対して批判することがたくさんありました。神がダマスコ途上で彼の行いをやめさせられるまで、彼は激しく教会を迫害していたからです。その後、主は彼を非常に力強く用いられたので、高慢にならないように、「肉体のとげ」をお許しになりました。神は、高慢と自己義認の持つ破滅的な力を御存知なので、私たちが、他人からの批判というとげの痛みを感じることをもお許しになるのです。
 私は、あまりにも簡単に高慢に陥ることに気づき、それが、どれほど神を悲しませているかを知って、こう言うようにしています。「神さま。過去と現在を感謝します。自分の失敗に気づく必要があるのなら、何度でも他人にそれを指摘させてください。けれども、その批判が、私にさらにあなたを愛させ、さらにあなたの恵みを感謝させるようなものでありますように。もし、あなたが、私の行いに応じて報いられたなら、私は永遠のいのちを望み得なかったでしょう。しかし、あなたは、私を世界一幸せな者にしてくださいました。私は永遠に感謝するでしょう。」
 批判を受けても私たちの感情が害されない時、私たちが抱く新しい喜びのことを考えてください。かつて感じていた不快な恨みや怒りの代わりに、神の平安が訪れるでしょう。人が、何と言おうと、どのように感じようと、何をしようと、それは今や、私たちに敵対するのではなく、益になるのです。神の力が私たちの内に解き放たれているのです。
 今あなたの人生にあるあらゆる問題に注意を集中し、神がある理由のために問題をもたらされたと信じてください。そのことを喜んでください。さらに喜んでください。喜び続けてください。やがて、その状況が神の御計画の一部であることが本当にわかってきます。
 「憎まれ、罵られた時、すべてがうまくいっていないように思える時、喜び踊りなさい。」(マタイ五・十一、十二)と言われたイエスは、この秘訣を御存知でした。主は、後に聖霊が私たちに、神がすべてのことの内に、また、すべてのことを通して働いておられるということを、信じさせてくださると知っておられたので、主は喜ばれたのです。
ぼくがどうしてイエスキリストを信じたか、なぜ今もイエスキリストに信頼して暮らしているか。 一人の偉人として僕の前に迫るキリストは、何も悪いことをしない、罪を犯さない聖人で、しかも一生の間、本当に優しい慈愛の人であったのに、なぜ十字架につけられたのか、なぜ十字架の上で、自分を告発した人を許したのか。復活してから、なぜ復讐しなかったのか、一見気障で、どうしても理屈や感情では納得がゆかない。 
 「父よ、彼らをお赦し下さい。彼等は何をしているのか自分でわからないのです。」
                          (ルカ 23:34)
 しかし、絶対者として僕に迫るキリストは、どこかから、じっと 言いようのない暖かい、そしていかにも僕のことが心配そうな、憂いのこもった眼差しで何時も見つめている、小さい時からその眼差しをどうしても無視できなかった。 
 「信じていた友人に裏切られた時」
 「自分の悪い性格が嫌で嫌でたまらない時」
 「誰も僕の気持ちを理解してくれない時」
 「どうして良いのかわからなくて大声を張り上げて見たい時」・・・・・・・・・・・・・・も、なぜか、キリストのあの眼差しが実感をもって僕に迫って来るのを強く感じるのです。
 順調な毎日の時は、それ程切実に思わないけれど、心に悲しみのある時、理屈ぬきに僕はイエスキリストを呼ばずにはいられない、今の僕にとってイエスキリストは何ものより信じられる唯一の存在です。

わたしにとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です
病者の祈り

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩)
死は「終り」ではない  山川千秋・穆子 著  より抜粋。

八 隠されたる神 (前半部)
 ブランケという神学者の、「ルターにける隠されたる神」という論文は、小さな論文ですが、非常に面白いと思いました。「救者としての神も、隠されたる神であり、啓示は同時に被覆である」と、ブランケは言います。また、「被覆は啓示の仮定であるだけでなく、信仰の仮定である」と言うのです。また、「怒りは、神がみずからを隠すヴェールである」というのです。信じるものを、地獄に落とそうとするかのように、怒りのヴェールをかぶって接近する神に対して、信頼と従順とが要求されるのです。信仰とは、怒りの背後にある愛と真実の神を、信じて疑わないことだと、ルターは言うのです。
 この思想は、困難と苦しみの日々における私に、大きな慰めと励ましを与えるものでありましたが、また同時に、大きな問題の提出でもありました。神が私に、どんなにひどいことをなさろうと、キリスト者としての節操を守って、黙って耐えていくことが、信仰というものなのでしょうか。そこには、神の愛を信じる者の、生き生きとした喜びはなく、ただ、暗い忍従のみがあるのです。そして、どんなにひどいことをされようと「受け取っていくのだ」、「耐えていくのだ」という、悲壮感がつきまとって離れなかったということは、問題であったと思います。そのような悲壮感は、けっきょく、自己追求にすぎなかったと思います。恵みにゆだねた者の、勝利でも、平安でもなかったのです。
 ルターにおける隠されたる神が、私にとって、現実の生活の、どのような状況の下において問題となり、また、克服されていったのでしょうか。昭和二十五年から二十九年にかけて、私の一家は、川の中の中州に建てられた、小屋のような小さな家に住んでおりました。その家は、発狂した少女を隔離するために、建てられた家でありましたが、少女が死んで空いていたので、私たちが買って入ったのです。その家で私は胃を患い、貧困と絶望の底に落ちました。毎日、一家心中を口にする日が続きました。特に、大雨になって増水した場合、逃げ道がなくなり、家が流されるかも分からないと思われました。それは、形容することのできない不安でありました。そういう状況の中で、私はルターを学び、ルターによって救われたのです。(詳しくは私のあかし「生きよ」をご覧下さい)
 隠されたる神を信じるということは、私にとって、いつの間にか暗い予想へと思いを馳せながら、そのことに耐えていこうとすることでありました。「流さないで下さい」と祈りながら、「信じる者は、むしろその信仰の故に流されるであろう」という、自暴自棄的な思いに駆られるのです。祈るということは、確かに、人間の願望のままに、神をねじ伏せることではありますまい。「あなたを信じています」と、どんなにあつかましく申し上げたとしても、そのことが、義にして自由なる神のみ前に、特権として通用することもありますまい。「流さないで下さい」と祈る心の底に、そのような暗い思いが、渦巻いていたのです。そして、そのような神に反抗しないことが、信仰であるというような、悲しい思いに満たされていたのです。しかし、信仰とは、はたしてそういうものなのでしょうか。「隠されたる神」に、どうして耐えることができるのでしょうか。
 
八 隠されたる神 (後半部)
 昭和二十八年のある日、病んでいた私は、少し体ぐあいのいい日に、杖をついて河原に出ました。そして私は、「お前は救われているではないか。キリストのいのちが、お前には流れているではないか」という、静かなる語りかけを聞いたのです。その日から、私と一家八人の家庭と生活は、すべてを神にゆだねた、平安と感謝の生活にと、変えられていきました。それは、言いかえますならば、キリストの臨在と内住の確信が、与えられたということです。私の心の内に住んで下さる、いのちなるキリストは、私の家庭の中にも居て下さるということが、確信されるようになったのです。
 私の病気、失業、貧困という、最悪の状態は、その後も何年も続きました。しかし、キリストが共に居て下さるならば、そういう日々にも、平安と感謝は失われないのだということを、発見させていただいたのです。神の怒りのわざとしか考えられないような、地獄に落とされるかのような、苦しみの日々をも、暗い心で、悲しげに、耐えていくのではありません。そのような日々にも、生ける主は、共に居て下さるのです。信じる者にとって、主が共に居て下さらないような瞬間はありえないということです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ二三・四三)と、主は、十字架上の犯罪人に言われましたが、そのみ言葉は、また私たちにも、言って下さったみ言葉であったのです。
 ルターは、隠されたる神に耐えました。しかも、生き生きとした感謝と、充実した生命感をもって、隠されたる神に耐え、そして、信じたのです。どうして彼は、隠されたる神を信じ、また、耐ええたのでしょうか。それは、いのちなるキリストの内住、生けるキリストの臨在の確信を、持っていたからだと思います。私もまた、そのことを、生活体験の中で、発見させていただきました。もしそうでないならば、人間というものは、決して、悲壮感を克服できるものではないのです。生けるキリストにゆだねきった、平安なる日々には、将来に対する暗い予感さえも、ゆだねてしまうことができ、忘れてしまうことができるのです。ゆだねるということは、暗い予想や想像を、決して心に持たないで、一瞬一瞬を、ただ主におまかせして、賛美感謝していけばいいのだということを、教えられたのです。
 
辰吉は独特のプラス思考の持ち主でもある。
「真っ直ぐに人生のレールが敷かれていたら面白くないでしょ?
ボクが歩いている道は遠回りかもしれないけれど、遠回りにはそれなりの景色があるんですよ。誰も見たことのない景色がね。誰も行ったことがない、誰もやったことがない、それをやり遂げることにボクは大きな価値を感じているんですよ」
 
二四 キリストに従う
 キリストに従うということは、具体的に、現実の生活において実践されていかなければなりません。そして、それは、人間の努力によってなされることではありません。キリストご自身のみわざにより、人間が変革されることによって、なされていくことなのです。律法に迫られることによってではなく、聖霊の愛と恵みによって、もたらされることなのです。
 またそれは、社会的な実践や、政治的な行動としても、現わされるでしょう。しかし、キリストに従うということは、まず、その人の日常的な営みのなかで、家庭や職場において、一つ一つ実践され、一歩一歩行動されていくことなのです。「わたしについてきなさい」というキリストのみ言葉は、まず、おのれの現実において聞くべきです。たとえば、ある青年はまじめになるでしょう。父や母にやさしくなるでしょう。物を大切にし、むだ使いをしなくなるでしょう。よくない習慣をやめるでしょう。このようなことを、決してばかにしてはいけません。
 そして、そのような個人倫理の実践は、自己のみを見つめることではなく、また、自己の利益のためになされることでもありません。「キリストについていく者」にと変革されたキリスト者に訪れる、その生活の変化であり、キリストについていく喜びから、おのずからにして実践されたり、また、忘れられたりしていくことにすぎないのです。
 しかし、そのような、神の愛の力による一人の人間の変化が訪れる前には、誰でもいちおう、自分の力でやってみようとするでしょう。自分の可能性と努力によって、キリストに服従しようとするのです。そして、罪と不可能の、絶望の底に落ちるのです。その絶望の底で、十字架の光を発見するでしょう。生けるキリストのみ手によって引き上げられるでしょう。その時から、始めて、神の恵みによって、一歩一歩、キリストに服従していく人間にと、生れ変らされていくのです。自分でやってみようと努力しない人は、絶望の底には落ちないでしょう。そして、絶望の底に落ちてみなければ、神の恵みは分らないでしょう。そういう意味において、律法は今も、一人の人をキリストの恵みにと導いていく役割をはたしていると言えます。
 
一四 キリスト者の家庭 
 キリスト者の家庭では、不満や、ぐちや、人の悪口などは聞かれません。神に対する恐れと感謝、隣人に対する親切の溢れる空気の中で、子供は教育されていくのです、それは、生ける主が、家庭の中に臨在されるからです、そこでは、何が起こっても、まず感謝が捧げられます。「何が起こっても」です。そして、神の恵みの御支配に対する信頼は、一層確かなものにされていきます。神の守りがあったからこそ、その程度ですんだのだと気がつきます。またその痛い出来事を通してなされる神の御警告を、謹んで聞くことができるのです。しかし、そのような家庭で育てられた子供にも、罪の性質は残っておりますので、十字架の血潮によって、潔められていかなければならないのです。
一三 聖霊を受けましたか
 イエスをキリストと信じているのは、既に聖霊を与えられている証拠です。(第Ⅰコリント一二・三)。ですから、「聖霊を与えられている」と、「信じさせる」ことがたいせつです。イエスをキリストと信じる人は、聖霊を与えられています、しかし、非常に多くの信者が、聖霊に「満たされて」はいないのです。
二一 赦す
 信者も教会も、悔い改める兄弟に対しては、赦そうとする姿勢を持っています。「七度を七十倍するまで赦せ」と主が言われたように、何度でも赦そうとする願いを持っています。しかし、ほんとうに「赦す」ということは、悔い改めようとしない者や、罪を犯し続けている者をさえも、やさしく赦すことなのです。それは、悪の是認、罪の放認のようですが、決してそうではないのです。どうにでもなれ、勝手にしろと、放ってしまうことではないのです。その人が潔くなるようにという、切なる愛の祈りを内に秘めているからです。そして、「赦す」ということは、その人の罪を、自分の罪として負うていくことなのです。
四 キリスト者
 「わたしはなんという罪深い人間なのだろう」という現実の嘆きと、「こんな者さえ赦されているのだ、ありがたいなあ」とう感謝の実感とを、現在同時に持っているのがキリスト者です。また、誰の前にも心から頭を下げる真実の謙遜さと、万物をも克服し得た勝利の確信とを、現在同時に持っているのも、キリスト者なのです。この秘密は、彼が、罪人であるにもかかわらず、生けるキリストを心に宿しているという、そこから生じてくるのです。
三 隣人との関わり
 キリストを抜きにしたキリスト者の、社会的生き方は、隣人との関わりが、絶えず自己の義となり、功績となり、生きる力となっていきます。しかし、罪の赦しに立ったキリスト者の、社会的生き方は、隣人に対する関わりが、絶えざる罪意識となり、またその人の、生きる使命となっていくのです。
 キリストを抜きにして、隣人との関わりを持とうとする時、世界の大きな問題を取り上げながら、身近な人の平和やしあわせを踏みにじり、その悲鳴には耳もかけないという、非常な英雄主義に陥る危険があります。世界のことに生きる、大きな視野と熱情とを持ちながら、同時に、黙って、身近な家族や隣人にも仕えていく、謙虚な愛と奉仕とを、無視してはいけません。
 そして、キリスト者の隣人との関わりは、政治的にであるよりも、根本的に、伝道を目的としたものであるべきです。周囲のすべての隣人が、家族も含めて、伝道の対象ですが、今日のキリスト者が、隣人に福音を伝えようとしないことは、実に驚くべきことです。伝道の祈りを内に秘めて、隣人と交わろうとしないなら、キリスト者とは言えないのです。一人の隣人を、キリストの愛の中に入れようとし、キリストとの交わりの中に入れようとすることは、キリスト者の生命であり、根本的な生き方であるはずです。キリスト者が神の前に問われる最後のことは、隣人にキリストの福音を語ったかどうかということです。

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」    (マタイ 20:18)
 神様のみこころです、すべてが、と牧師は断言なさいました。私は、とてもそうは思えないと感じるのが正直なところです。私は、牧師の説教を通して、自分の解釈に従い、自分の人生に、もしくは他人の生き方に、少しはプラスになるようにコメントすること、しかできません。
 ヨブは、良いことも悪いことも感謝することができた。神様の訓練に耐えることで、神様のみこころにかなうものになることができる、ということを知っていた。だから、艱難を喜んで、受けることができた。
 「私は、裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」   (ヨブ 1:21 今月の暗誦聖句)
 神様なしで、人間は立ち直ることなどできません。見えないところで、神様は支えてくださっている。
 東北の方々は、本当に普段から、我慢強く、寒いところでも、皆さん助け合っていらっしゃる。関東の私達のところにこれだけの震災が及んだときに、いったいどうなっているでしょうか。
 私たちは限りないほど罪を犯しています。けれども、許され、救われているのに、感謝しない。イエス様の十字架が無駄になってしまいます。イエス様は、十字架に掛かられ、三日間黄泉で苦しまれた。お体は、弟子たちが十字架から降ろされました。しかし、イエス様のみこころは、十字架の上にずっとあったのではないでしょうか。だから、真剣に十字架にお従いするのは、あたりまえのことではないでしょうか。私達クリスチャンはイエス様の福音を伝えること。救われたものは、十字架の話を皆に話し伝えること。私たちは決意しないだけです。
 従う気のない人は、最後の審判で裁かれる覚悟を持って、従わなくてもいいのです。しかし、最後の日、神の審判を受けられる人がいると思いますか、いないから・・・・・。燃える炉の中で永遠に苦しみ続ける、永遠に・・・。神様の憐れみなしで、人は一日も生きられることはできないのです。
 「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」  
               (テサロニケⅡ 4:1~2  3月25日ベタニヤ会)

 震災で被災されました方々に、何もできなくて申し訳ありません。
ところで、このように自分勝手に何を言ってるんだということになるのですが、原子炉の問題なども、経過を見てきて、東京電力は何をやってるんだと感じることもあったり、本当に命がけで頑張ってるんだなーと思い直したり、欧州の方々は、日本から早く逃げ出さないとやばいと言ってるらしいことを聞いたり、子供たちを韓国に避難させようかと、彼女と話したりもしました。そして、日本はすでに終わってるんじゃないかと感じて絶望的にもなったのですが、そうではなかった。日本人はすごい、本当にすごいと感じ、思い直しました。とにかく、そのように自分の感じ方、考えが変わってきたことを言いたいのです。とにかく今は、日本で頑張るぞー。
 「健全な信仰とはなにか」 丸屋真也さん(いのちのことば社)の本を読んで、霊的成人の基本は自立であるということを考え直すにいたりました。「神との主体的な関係の確立」とはどういうことか。神は私たちに「あなた自身はどうしたいのか」とお聞きになるということ。パウロは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい・・・」(Ⅱコリント9:7)と語っているということ。神のみこころがなんであるかを見きわめるのは私たち自身であること。
 いい本ですね、改めて要点を整理して紹介したいと思います。

 ヤコブは、愛するラケルと結婚するため、伯父ラバンの下で、無報酬で何年も働くことを決して厭わなかった。ヤコブの我慢強さ、忍耐力は主が選びの器とお決めになっただけのことはある。しかし、決して品行方正というわけでなく、時に知恵と決断と実行力を発揮した。伯父ラバンの仕打ちにびくともしない、信仰に裏打ちされた強さを持っていた。
 神様の目を信じられた、神様が自分を見ていて下さり祝福を与えて下さることに確信があったから、20年もの間、無報酬でラバンに仕えることができた。ヤコブはラバンを見ていたわけでなく、神様を見ていた。
 神様を忘れないこと。クリスチャンは品行方正を求めたがるが、そうでない。品行方正な教会員は、逆に悔い改めの必要を感じていないのではないか。主、神様の意思によって、時に法に適わぬほどの良いことも与えてくださり、報いて下さることもある。
 みことばが与えられた時、それが悪知恵のようなことであったとしても、主に与えられた知恵であることを信じ、許して頂けるに違いないという確信を持って、突き進むことも時にはあるということだ。
 ヤコブの話だと思って読んでいたら、何の祝福もない。聖書の祝福は、受ける資格のない私たちが受けることができる。恵み、祝福の意味は、一般社会の人たちとはまったく違う。神様を信じた者が、受ける資格のない膨大な祝福、恵みを受けることができる。
 だから、神様に感謝し、おそれ敬うこと。感動する人は、目が開いている。聖書を読んでいても、感じることのできない人が、クリスチャンにもいる。クリスチャンでなくても、賢く目覚めている人はたくさんいる。
 今日の礼拝の説教テーマは「つまずいている人に忠告する。」(マタイ18:15~20)です。
 「まことに」とイエス様が告げられている言葉は、「注意して聞きなさい。」という意味で重要です。つまずいている人、たとえば教会へ来なくなった兄弟姉妹の変化に、気づいても知らんぷりしていたということがなかったでしょうか。兄弟姉妹のことなんて、どうでもよいと思っていませんか。つまずいてしまっても、自分の自尊心が、自分や兄弟姉妹の悔い改めを赦さない人が多いのです。
 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行ってふたりだけのところで責めなさい。」(マタイ 18:15)
 イエス様の十字架に感謝できなくなって、いわば、心が麻痺してしまったことは、神を敬わなくなったことは、大きな罪です。クリスチャンは魂に命を与えられた者です。ですから、魂にも、ご飯を食べさせてあげなければ死ぬのです。
 ところで、自分はといえば、聖書のみことばの光で、自分の信仰を照らして、見直しているのでしょうか。十字架のご恩を忘れ、知らない間に傲慢になっていませんか。自分自身の罪が見えているのかどうか、真剣に考えてみなければなりません。
 その上で、兄弟姉妹とともに再臨を迎えたときにイエス様にお会いしたい。最後の審判では、燃える炉の中に投げこまれることがないような信仰者でありたいと思うから、柔和な心で兄弟姉妹の罪について忠告してあげるのです。
クリスマス祝会を、恵まれて盛会のうちに催すことができました。感謝!ただ、いつものことですが、新しい方が参加されなかったことが、残念です。牧師のお話ですと、私たち全員の信仰に対する熱心さがないこと。福音を伝えることの大切さがわかっていないこと。家族にもしっかり福音を伝えていないていたらく、神に対する感謝の気持ちがないことなど。本当にそのとおりだと思います。
 教会員が互いに愛し合えますように。牧師や教会員、悩める方のために本気で祈れますように。子供たちにもイエス様のことを知ってもらえますように。本気で伝道し、福音を伝えることができますように。
 年間2万人とも3万人とも言われている日本人の自殺者。主イエス様を知ってさえいたらと思います。
 悩める方、どうか自分の力に頼ろうとなさらずに、創造主である神を、主イエス様の愛と、みわざ、み力、大きな祝福を、教会を通して受け取ってみたらいかがでしょうか。   (2010.12.30)
 教会のサイトと考えておりますので、私的な考えの披露する場ではないのですが、とても参考になった著作の一部を紹介したいと思います。私は何のために生きてるのかという本(題名は、はっきりしない)のコピーの一部を先生に頂いたものを、最近目に通してみて、あらためて驚いたこと。
 「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味もない。」(バートランド・ラッセル)
 もし神がおられないとしたら、(じつは私自身そう思っているかもしれません。)私たちは皆「偶然」、宇宙における天文学的数値の無作為による偶然の産物(あるいは統計的にある偏りから発生した生命のもつ方向性によって生まれ?)ということになります。人生には目的も意味も重要性もないのですから、この地上で過ごす短い年月の中にしか希望が見出せなくなるのです。(一部引用しました。以下引用))
 「自分に固執していると、やがて行き詰ることになる。しかし神を仰ぎ見ていれば、開放的で、広々とした、自由な人生が目の前に開けてくる。」
 「自己啓発(人生の目的を発見するためのステップ)は、実際のところ助けにはならない。自己犠牲こそが、自分を発見する唯一の道であり、それがわたしの方法である。」
 すべてのもの、ありとあらゆるもの、天にあるものも地にあるものも、目に見えるものもすべて・・いっさいのものがキリストのうちに始まり、キリストの中にその目的を見出すのです。(コロサイ人への手紙1・16)
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