ぼくがどうしてイエスキリストを信じたか、なぜ今もイエスキリストに信頼して暮らしているか。 一人の偉人として僕の前に迫るキリストは、何も悪いことをしない、罪を犯さない聖人で、しかも一生の間、本当に優しい慈愛の人であったのに、なぜ十字架につけられたのか、なぜ十字架の上で、自分を告発した人を許したのか。復活してから、なぜ復讐しなかったのか、一見気障で、どうしても理屈や感情では納得がゆかない。
「父よ、彼らをお赦し下さい。彼等は何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカ 23:34)
しかし、絶対者として僕に迫るキリストは、どこかから、じっと 言いようのない暖かい、そしていかにも僕のことが心配そうな、憂いのこもった眼差しで何時も見つめている、小さい時からその眼差しをどうしても無視できなかった。
「信じていた友人に裏切られた時」
「自分の悪い性格が嫌で嫌でたまらない時」
「誰も僕の気持ちを理解してくれない時」
「どうして良いのかわからなくて大声を張り上げて見たい時」・・・・・・・・・・・・・・も、なぜか、キリストのあの眼差しが実感をもって僕に迫って来るのを強く感じるのです。
順調な毎日の時は、それ程切実に思わないけれど、心に悲しみのある時、理屈ぬきに僕はイエスキリストを呼ばずにはいられない、今の僕にとってイエスキリストは何ものより信じられる唯一の存在です。
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