八 隠されたる神 (後半部)
昭和二十八年のある日、病んでいた私は、少し体ぐあいのいい日に、杖をついて河原に出ました。そして私は、「お前は救われているではないか。キリストのいのちが、お前には流れているではないか」という、静かなる語りかけを聞いたのです。その日から、私と一家八人の家庭と生活は、すべてを神にゆだねた、平安と感謝の生活にと、変えられていきました。それは、言いかえますならば、キリストの臨在と内住の確信が、与えられたということです。私の心の内に住んで下さる、いのちなるキリストは、私の家庭の中にも居て下さるということが、確信されるようになったのです。
私の病気、失業、貧困という、最悪の状態は、その後も何年も続きました。しかし、キリストが共に居て下さるならば、そういう日々にも、平安と感謝は失われないのだということを、発見させていただいたのです。神の怒りのわざとしか考えられないような、地獄に落とされるかのような、苦しみの日々をも、暗い心で、悲しげに、耐えていくのではありません。そのような日々にも、生ける主は、共に居て下さるのです。信じる者にとって、主が共に居て下さらないような瞬間はありえないということです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ二三・四三)と、主は、十字架上の犯罪人に言われましたが、そのみ言葉は、また私たちにも、言って下さったみ言葉であったのです。
ルターは、隠されたる神に耐えました。しかも、生き生きとした感謝と、充実した生命感をもって、隠されたる神に耐え、そして、信じたのです。どうして彼は、隠されたる神を信じ、また、耐ええたのでしょうか。それは、いのちなるキリストの内住、生けるキリストの臨在の確信を、持っていたからだと思います。私もまた、そのことを、生活体験の中で、発見させていただきました。もしそうでないならば、人間というものは、決して、悲壮感を克服できるものではないのです。生けるキリストにゆだねきった、平安なる日々には、将来に対する暗い予感さえも、ゆだねてしまうことができ、忘れてしまうことができるのです。ゆだねるということは、暗い予想や想像を、決して心に持たないで、一瞬一瞬を、ただ主におまかせして、賛美感謝していけばいいのだということを、教えられたのです。
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