ヤコブは、愛するラケルと結婚するため、伯父ラバンの下で、無報酬で何年も働くことを決して厭わなかった。ヤコブの我慢強さ、忍耐力は主が選びの器とお決めになっただけのことはある。しかし、決して品行方正というわけでなく、時に知恵と決断と実行力を発揮した。伯父ラバンの仕打ちにびくともしない、信仰に裏打ちされた強さを持っていた。
神様の目を信じられた、神様が自分を見ていて下さり祝福を与えて下さることに確信があったから、20年もの間、無報酬でラバンに仕えることができた。ヤコブはラバンを見ていたわけでなく、神様を見ていた。
神様を忘れないこと。クリスチャンは品行方正を求めたがるが、そうでない。品行方正な教会員は、逆に悔い改めの必要を感じていないのではないか。主、神様の意思によって、時に法に適わぬほどの良いことも与えてくださり、報いて下さることもある。
みことばが与えられた時、それが悪知恵のようなことであったとしても、主に与えられた知恵であることを信じ、許して頂けるに違いないという確信を持って、突き進むことも時にはあるということだ。
ヤコブの話だと思って読んでいたら、何の祝福もない。聖書の祝福は、受ける資格のない私たちが受けることができる。恵み、祝福の意味は、一般社会の人たちとはまったく違う。神様を信じた者が、受ける資格のない膨大な祝福、恵みを受けることができる。
だから、神様に感謝し、おそれ敬うこと。感動する人は、目が開いている。聖書を読んでいても、感じることのできない人が、クリスチャンにもいる。クリスチャンでなくても、賢く目覚めている人はたくさんいる。
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