二四 キリストに従う
キリストに従うということは、具体的に、現実の生活において実践されていかなければなりません。そして、それは、人間の努力によってなされることではありません。キリストご自身のみわざにより、人間が変革されることによって、なされていくことなのです。律法に迫られることによってではなく、聖霊の愛と恵みによって、もたらされることなのです。
またそれは、社会的な実践や、政治的な行動としても、現わされるでしょう。しかし、キリストに従うということは、まず、その人の日常的な営みのなかで、家庭や職場において、一つ一つ実践され、一歩一歩行動されていくことなのです。「わたしについてきなさい」というキリストのみ言葉は、まず、おのれの現実において聞くべきです。たとえば、ある青年はまじめになるでしょう。父や母にやさしくなるでしょう。物を大切にし、むだ使いをしなくなるでしょう。よくない習慣をやめるでしょう。このようなことを、決してばかにしてはいけません。
そして、そのような個人倫理の実践は、自己のみを見つめることではなく、また、自己の利益のためになされることでもありません。「キリストについていく者」にと変革されたキリスト者に訪れる、その生活の変化であり、キリストについていく喜びから、おのずからにして実践されたり、また、忘れられたりしていくことにすぎないのです。
しかし、そのような、神の愛の力による一人の人間の変化が訪れる前には、誰でもいちおう、自分の力でやってみようとするでしょう。自分の可能性と努力によって、キリストに服従しようとするのです。そして、罪と不可能の、絶望の底に落ちるのです。その絶望の底で、十字架の光を発見するでしょう。生けるキリストのみ手によって引き上げられるでしょう。その時から、始めて、神の恵みによって、一歩一歩、キリストに服従していく人間にと、生れ変らされていくのです。自分でやってみようと努力しない人は、絶望の底には落ちないでしょう。そして、絶望の底に落ちてみなければ、神の恵みは分らないでしょう。そういう意味において、律法は今も、一人の人をキリストの恵みにと導いていく役割をはたしていると言えます。
PR