忍者ブログ
礼拝にようこそ、主がどんなにお喜びくださることでしょう。
Admin | Write | Comment
カテゴリー
アーカイブ
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」    (マタイ 20:18)
 神様のみこころです、すべてが、と牧師は断言なさいました。私は、とてもそうは思えないと感じるのが正直なところです。私は、牧師の説教を通して、自分の解釈に従い、自分の人生に、もしくは他人の生き方に、少しはプラスになるようにコメントすること、しかできません。
 ヨブは、良いことも悪いことも感謝することができた。神様の訓練に耐えることで、神様のみこころにかなうものになることができる、ということを知っていた。だから、艱難を喜んで、受けることができた。
 「私は、裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」   (ヨブ 1:21 今月の暗誦聖句)
 神様なしで、人間は立ち直ることなどできません。見えないところで、神様は支えてくださっている。
 東北の方々は、本当に普段から、我慢強く、寒いところでも、皆さん助け合っていらっしゃる。関東の私達のところにこれだけの震災が及んだときに、いったいどうなっているでしょうか。
 私たちは限りないほど罪を犯しています。けれども、許され、救われているのに、感謝しない。イエス様の十字架が無駄になってしまいます。イエス様は、十字架に掛かられ、三日間黄泉で苦しまれた。お体は、弟子たちが十字架から降ろされました。しかし、イエス様のみこころは、十字架の上にずっとあったのではないでしょうか。だから、真剣に十字架にお従いするのは、あたりまえのことではないでしょうか。私達クリスチャンはイエス様の福音を伝えること。救われたものは、十字架の話を皆に話し伝えること。私たちは決意しないだけです。
 従う気のない人は、最後の審判で裁かれる覚悟を持って、従わなくてもいいのです。しかし、最後の日、神の審判を受けられる人がいると思いますか、いないから・・・・・。燃える炉の中で永遠に苦しみ続ける、永遠に・・・。神様の憐れみなしで、人は一日も生きられることはできないのです。
 「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」  
               (テサロニケⅡ 4:1~2  3月25日ベタニヤ会)

PR
 今日の礼拝の説教テーマは「つまずいている人に忠告する。」(マタイ18:15~20)です。
 「まことに」とイエス様が告げられている言葉は、「注意して聞きなさい。」という意味で重要です。つまずいている人、たとえば教会へ来なくなった兄弟姉妹の変化に、気づいても知らんぷりしていたということがなかったでしょうか。兄弟姉妹のことなんて、どうでもよいと思っていませんか。つまずいてしまっても、自分の自尊心が、自分や兄弟姉妹の悔い改めを赦さない人が多いのです。
 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行ってふたりだけのところで責めなさい。」(マタイ 18:15)
 イエス様の十字架に感謝できなくなって、いわば、心が麻痺してしまったことは、神を敬わなくなったことは、大きな罪です。クリスチャンは魂に命を与えられた者です。ですから、魂にも、ご飯を食べさせてあげなければ死ぬのです。
 ところで、自分はといえば、聖書のみことばの光で、自分の信仰を照らして、見直しているのでしょうか。十字架のご恩を忘れ、知らない間に傲慢になっていませんか。自分自身の罪が見えているのかどうか、真剣に考えてみなければなりません。
 その上で、兄弟姉妹とともに再臨を迎えたときにイエス様にお会いしたい。最後の審判では、燃える炉の中に投げこまれることがないような信仰者でありたいと思うから、柔和な心で兄弟姉妹の罪について忠告してあげるのです。
| HOME |
Copyright ©  -- イエスキリスト福音大和田教会 --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Material by White Board
忍者ブログ  /  [PR]