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礼拝にようこそ、主がどんなにお喜びくださることでしょう。
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 ぼくがどうしてイエスキリストを信じたか、なぜ今もイエスキリストに信頼して暮らしているか。 一人の偉人として僕の前に迫るキリストは、何も悪いことをしない、罪を犯さない聖人で、しかも一生の間、本当に優しい慈愛の人であったのに、なぜ十字架につけられたのか、なぜ十字架の上で、自分を告発した人を許したのか。復活してから、なぜ復讐しなかったのか、一見気障で、どうしても理屈や感情では納得がゆかない。 
 「父よ、彼らをお赦し下さい。彼等は何をしているのか自分でわからないのです。」
                          (ルカ 23:34)
 しかし、絶対者として僕に迫るキリストは、どこかから、じっと 言いようのない暖かい、そしていかにも僕のことが心配そうな、憂いのこもった眼差しで何時も見つめている、小さい時からその眼差しをどうしても無視できなかった。 
 「信じていた友人に裏切られた時」
 「自分の悪い性格が嫌で嫌でたまらない時」
 「誰も僕の気持ちを理解してくれない時」
 「どうして良いのかわからなくて大声を張り上げて見たい時」・・・・・・・・・・・・・・も、なぜか、キリストのあの眼差しが実感をもって僕に迫って来るのを強く感じるのです。
 順調な毎日の時は、それ程切実に思わないけれど、心に悲しみのある時、理屈ぬきに僕はイエスキリストを呼ばずにはいられない、今の僕にとってイエスキリストは何ものより信じられる唯一の存在です。      大塚                                                                                  
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わたしにとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です
病者の祈り

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩)
死は「終り」ではない  山川千秋・穆子 著  より抜粋。
 八 隠されたる神 (前半部)
 ブランケという神学者の、「ルターにける隠されたる神」という論文は、小さな論文ですが、非常に面白いと思いました。「救者としての神も、隠されたる神であり、啓示は同時に被覆である」と、ブランケは言います。また、「被覆は啓示の仮定であるだけでなく、信仰の仮定である」と言うのです。また、「怒りは、神がみずからを隠すヴェールである」というのです。信じるものを、地獄に落とそうとするかのように、怒りのヴェールをかぶって接近する神に対して、信頼と従順とが要求されるのです。信仰とは、怒りの背後にある愛と真実の神を、信じて疑わないことだと、ルターは言うのです。
 この思想は、困難と苦しみの日々における私に、大きな慰めと励ましを与えるものでありましたが、また同時に、大きな問題の提出でもありました。神が私に、どんなにひどいことをなさろうと、キリスト者としての節操を守って、黙って耐えていくことが、信仰というものなのでしょうか。そこには、神の愛を信じる者の、生き生きとした喜びはなく、ただ、暗い忍従のみがあるのです。そして、どんなにひどいことをされようと「受け取っていくのだ」、「耐えていくのだ」という、悲壮感がつきまとって離れなかったということは、問題であったと思います。そのような悲壮感は、けっきょく、自己追求にすぎなかったと思います。恵みにゆだねた者の、勝利でも、平安でもなかったのです。
 ルターにおける隠されたる神が、私にとって、現実の生活の、どのような状況の下において問題となり、また、克服されていったのでしょうか。昭和二十五年から二十九年にかけて、私の一家は、川の中の中州に建てられた、小屋のような小さな家に住んでおりました。その家は、発狂した少女を隔離するために、建てられた家でありましたが、少女が死んで空いていたので、私たちが買って入ったのです。その家で私は胃を患い、貧困と絶望の底に落ちました。毎日、一家心中を口にする日が続きました。特に、大雨になって増水した場合、逃げ道がなくなり、家が流されるかも分からないと思われました。それは、形容することのできない不安でありました。そういう状況の中で、私はルターを学び、ルターによって救われたのです。(詳しくは私のあかし「生きよ」をご覧下さい)
 隠されたる神を信じるということは、私にとって、いつの間にか暗い予想へと思いを馳せながら、そのことに耐えていこうとすることでありました。「流さないで下さい」と祈りながら、「信じる者は、むしろその信仰の故に流されるであろう」という、自暴自棄的な思いに駆られるのです。祈るということは、確かに、人間の願望のままに、神をねじ伏せることではありますまい。「あなたを信じています」と、どんなにあつかましく申し上げたとしても、そのことが、義にして自由なる神のみ前に、特権として通用することもありますまい。「流さないで下さい」と祈る心の底に、そのような暗い思いが、渦巻いていたのです。そして、そのような神に反抗しないことが、信仰であるというような、悲しい思いに満たされていたのです。しかし、信仰とは、はたしてそういうものなのでしょうか。「隠されたる神」に、どうして耐えることができるのでしょうか。
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