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礼拝にようこそ、主がどんなにお喜びくださることでしょう。
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 パウロの人生は、神の恵みと赦しの典型でした。他の人たちは、彼に対して批判することがたくさんありました。神がダマスコ途上で彼の行いをやめさせられるまで、彼は激しく教会を迫害していたからです。その後、主は彼を非常に力強く用いられたので、高慢にならないように、「肉体のとげ」をお許しになりました。神は、高慢と自己義認の持つ破滅的な力を御存知なので、私たちが、他人からの批判というとげの痛みを感じることをもお許しになるのです。
 私は、あまりにも簡単に高慢に陥ることに気づき、それが、どれほど神を悲しませているかを知って、こう言うようにしています。「神さま。過去と現在を感謝します。自分の失敗に気づく必要があるのなら、何度でも他人にそれを指摘させてください。けれども、その批判が、私にさらにあなたを愛させ、さらにあなたの恵みを感謝させるようなものでありますように。もし、あなたが、私の行いに応じて報いられたなら、私は永遠のいのちを望み得なかったでしょう。しかし、あなたは、私を世界一幸せな者にしてくださいました。私は永遠に感謝するでしょう。」
 批判を受けても私たちの感情が害されない時、私たちが抱く新しい喜びのことを考えてください。かつて感じていた不快な恨みや怒りの代わりに、神の平安が訪れるでしょう。人が、何と言おうと、どのように感じようと、何をしようと、それは今や、私たちに敵対するのではなく、益になるのです。神の力が私たちの内に解き放たれているのです。
 今あなたの人生にあるあらゆる問題に注意を集中し、神がある理由のために問題をもたらされたと信じてください。そのことを喜んでください。さらに喜んでください。喜び続けてください。やがて、その状況が神の御計画の一部であることが本当にわかってきます。
 「憎まれ、罵られた時、すべてがうまくいっていないように思える時、喜び踊りなさい。」(マタイ五・十一、十二)と言われたイエスは、この秘訣を御存知でした。主は、後に聖霊が私たちに、神がすべてのことの内に、また、すべてのことを通して働いておられるということを、信じさせてくださると知っておられたので、主は喜ばれたのです。
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八 隠されたる神 (前半部)
 ブランケという神学者の、「ルターにける隠されたる神」という論文は、小さな論文ですが、非常に面白いと思いました。「救者としての神も、隠されたる神であり、啓示は同時に被覆である」と、ブランケは言います。また、「被覆は啓示の仮定であるだけでなく、信仰の仮定である」と言うのです。また、「怒りは、神がみずからを隠すヴェールである」というのです。信じるものを、地獄に落とそうとするかのように、怒りのヴェールをかぶって接近する神に対して、信頼と従順とが要求されるのです。信仰とは、怒りの背後にある愛と真実の神を、信じて疑わないことだと、ルターは言うのです。
 この思想は、困難と苦しみの日々における私に、大きな慰めと励ましを与えるものでありましたが、また同時に、大きな問題の提出でもありました。神が私に、どんなにひどいことをなさろうと、キリスト者としての節操を守って、黙って耐えていくことが、信仰というものなのでしょうか。そこには、神の愛を信じる者の、生き生きとした喜びはなく、ただ、暗い忍従のみがあるのです。そして、どんなにひどいことをされようと「受け取っていくのだ」、「耐えていくのだ」という、悲壮感がつきまとって離れなかったということは、問題であったと思います。そのような悲壮感は、けっきょく、自己追求にすぎなかったと思います。恵みにゆだねた者の、勝利でも、平安でもなかったのです。
 ルターにおける隠されたる神が、私にとって、現実の生活の、どのような状況の下において問題となり、また、克服されていったのでしょうか。昭和二十五年から二十九年にかけて、私の一家は、川の中の中州に建てられた、小屋のような小さな家に住んでおりました。その家は、発狂した少女を隔離するために、建てられた家でありましたが、少女が死んで空いていたので、私たちが買って入ったのです。その家で私は胃を患い、貧困と絶望の底に落ちました。毎日、一家心中を口にする日が続きました。特に、大雨になって増水した場合、逃げ道がなくなり、家が流されるかも分からないと思われました。それは、形容することのできない不安でありました。そういう状況の中で、私はルターを学び、ルターによって救われたのです。(詳しくは私のあかし「生きよ」をご覧下さい)
 隠されたる神を信じるということは、私にとって、いつの間にか暗い予想へと思いを馳せながら、そのことに耐えていこうとすることでありました。「流さないで下さい」と祈りながら、「信じる者は、むしろその信仰の故に流されるであろう」という、自暴自棄的な思いに駆られるのです。祈るということは、確かに、人間の願望のままに、神をねじ伏せることではありますまい。「あなたを信じています」と、どんなにあつかましく申し上げたとしても、そのことが、義にして自由なる神のみ前に、特権として通用することもありますまい。「流さないで下さい」と祈る心の底に、そのような暗い思いが、渦巻いていたのです。そして、そのような神に反抗しないことが、信仰であるというような、悲しい思いに満たされていたのです。しかし、信仰とは、はたしてそういうものなのでしょうか。「隠されたる神」に、どうして耐えることができるのでしょうか。
 
八 隠されたる神 (後半部)
 昭和二十八年のある日、病んでいた私は、少し体ぐあいのいい日に、杖をついて河原に出ました。そして私は、「お前は救われているではないか。キリストのいのちが、お前には流れているではないか」という、静かなる語りかけを聞いたのです。その日から、私と一家八人の家庭と生活は、すべてを神にゆだねた、平安と感謝の生活にと、変えられていきました。それは、言いかえますならば、キリストの臨在と内住の確信が、与えられたということです。私の心の内に住んで下さる、いのちなるキリストは、私の家庭の中にも居て下さるということが、確信されるようになったのです。
 私の病気、失業、貧困という、最悪の状態は、その後も何年も続きました。しかし、キリストが共に居て下さるならば、そういう日々にも、平安と感謝は失われないのだということを、発見させていただいたのです。神の怒りのわざとしか考えられないような、地獄に落とされるかのような、苦しみの日々をも、暗い心で、悲しげに、耐えていくのではありません。そのような日々にも、生ける主は、共に居て下さるのです。信じる者にとって、主が共に居て下さらないような瞬間はありえないということです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ二三・四三)と、主は、十字架上の犯罪人に言われましたが、そのみ言葉は、また私たちにも、言って下さったみ言葉であったのです。
 ルターは、隠されたる神に耐えました。しかも、生き生きとした感謝と、充実した生命感をもって、隠されたる神に耐え、そして、信じたのです。どうして彼は、隠されたる神を信じ、また、耐ええたのでしょうか。それは、いのちなるキリストの内住、生けるキリストの臨在の確信を、持っていたからだと思います。私もまた、そのことを、生活体験の中で、発見させていただきました。もしそうでないならば、人間というものは、決して、悲壮感を克服できるものではないのです。生けるキリストにゆだねきった、平安なる日々には、将来に対する暗い予感さえも、ゆだねてしまうことができ、忘れてしまうことができるのです。ゆだねるということは、暗い予想や想像を、決して心に持たないで、一瞬一瞬を、ただ主におまかせして、賛美感謝していけばいいのだということを、教えられたのです。
 
二四 キリストに従う
 キリストに従うということは、具体的に、現実の生活において実践されていかなければなりません。そして、それは、人間の努力によってなされることではありません。キリストご自身のみわざにより、人間が変革されることによって、なされていくことなのです。律法に迫られることによってではなく、聖霊の愛と恵みによって、もたらされることなのです。
 またそれは、社会的な実践や、政治的な行動としても、現わされるでしょう。しかし、キリストに従うということは、まず、その人の日常的な営みのなかで、家庭や職場において、一つ一つ実践され、一歩一歩行動されていくことなのです。「わたしについてきなさい」というキリストのみ言葉は、まず、おのれの現実において聞くべきです。たとえば、ある青年はまじめになるでしょう。父や母にやさしくなるでしょう。物を大切にし、むだ使いをしなくなるでしょう。よくない習慣をやめるでしょう。このようなことを、決してばかにしてはいけません。
 そして、そのような個人倫理の実践は、自己のみを見つめることではなく、また、自己の利益のためになされることでもありません。「キリストについていく者」にと変革されたキリスト者に訪れる、その生活の変化であり、キリストについていく喜びから、おのずからにして実践されたり、また、忘れられたりしていくことにすぎないのです。
 しかし、そのような、神の愛の力による一人の人間の変化が訪れる前には、誰でもいちおう、自分の力でやってみようとするでしょう。自分の可能性と努力によって、キリストに服従しようとするのです。そして、罪と不可能の、絶望の底に落ちるのです。その絶望の底で、十字架の光を発見するでしょう。生けるキリストのみ手によって引き上げられるでしょう。その時から、始めて、神の恵みによって、一歩一歩、キリストに服従していく人間にと、生れ変らされていくのです。自分でやってみようと努力しない人は、絶望の底には落ちないでしょう。そして、絶望の底に落ちてみなければ、神の恵みは分らないでしょう。そういう意味において、律法は今も、一人の人をキリストの恵みにと導いていく役割をはたしていると言えます。
 
一四 キリスト者の家庭 
 キリスト者の家庭では、不満や、ぐちや、人の悪口などは聞かれません。神に対する恐れと感謝、隣人に対する親切の溢れる空気の中で、子供は教育されていくのです、それは、生ける主が、家庭の中に臨在されるからです、そこでは、何が起こっても、まず感謝が捧げられます。「何が起こっても」です。そして、神の恵みの御支配に対する信頼は、一層確かなものにされていきます。神の守りがあったからこそ、その程度ですんだのだと気がつきます。またその痛い出来事を通してなされる神の御警告を、謹んで聞くことができるのです。しかし、そのような家庭で育てられた子供にも、罪の性質は残っておりますので、十字架の血潮によって、潔められていかなければならないのです。
一三 聖霊を受けましたか
 イエスをキリストと信じているのは、既に聖霊を与えられている証拠です。(第Ⅰコリント一二・三)。ですから、「聖霊を与えられている」と、「信じさせる」ことがたいせつです。イエスをキリストと信じる人は、聖霊を与えられています、しかし、非常に多くの信者が、聖霊に「満たされて」はいないのです。
二一 赦す
 信者も教会も、悔い改める兄弟に対しては、赦そうとする姿勢を持っています。「七度を七十倍するまで赦せ」と主が言われたように、何度でも赦そうとする願いを持っています。しかし、ほんとうに「赦す」ということは、悔い改めようとしない者や、罪を犯し続けている者をさえも、やさしく赦すことなのです。それは、悪の是認、罪の放認のようですが、決してそうではないのです。どうにでもなれ、勝手にしろと、放ってしまうことではないのです。その人が潔くなるようにという、切なる愛の祈りを内に秘めているからです。そして、「赦す」ということは、その人の罪を、自分の罪として負うていくことなのです。
四 キリスト者
 「わたしはなんという罪深い人間なのだろう」という現実の嘆きと、「こんな者さえ赦されているのだ、ありがたいなあ」とう感謝の実感とを、現在同時に持っているのがキリスト者です。また、誰の前にも心から頭を下げる真実の謙遜さと、万物をも克服し得た勝利の確信とを、現在同時に持っているのも、キリスト者なのです。この秘密は、彼が、罪人であるにもかかわらず、生けるキリストを心に宿しているという、そこから生じてくるのです。
三 隣人との関わり
 キリストを抜きにしたキリスト者の、社会的生き方は、隣人との関わりが、絶えず自己の義となり、功績となり、生きる力となっていきます。しかし、罪の赦しに立ったキリスト者の、社会的生き方は、隣人に対する関わりが、絶えざる罪意識となり、またその人の、生きる使命となっていくのです。
 キリストを抜きにして、隣人との関わりを持とうとする時、世界の大きな問題を取り上げながら、身近な人の平和やしあわせを踏みにじり、その悲鳴には耳もかけないという、非常な英雄主義に陥る危険があります。世界のことに生きる、大きな視野と熱情とを持ちながら、同時に、黙って、身近な家族や隣人にも仕えていく、謙虚な愛と奉仕とを、無視してはいけません。
 そして、キリスト者の隣人との関わりは、政治的にであるよりも、根本的に、伝道を目的としたものであるべきです。周囲のすべての隣人が、家族も含めて、伝道の対象ですが、今日のキリスト者が、隣人に福音を伝えようとしないことは、実に驚くべきことです。伝道の祈りを内に秘めて、隣人と交わろうとしないなら、キリスト者とは言えないのです。一人の隣人を、キリストの愛の中に入れようとし、キリストとの交わりの中に入れようとすることは、キリスト者の生命であり、根本的な生き方であるはずです。キリスト者が神の前に問われる最後のことは、隣人にキリストの福音を語ったかどうかということです。
 教会のサイトと考えておりますので、私的な考えの披露する場ではないのですが、とても参考になった著作の一部を紹介したいと思います。私は何のために生きてるのかという本(題名は、はっきりしない)のコピーの一部を先生に頂いたものを、最近目に通してみて、あらためて驚いたこと。
 「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味もない。」(バートランド・ラッセル)
 もし神がおられないとしたら、(じつは私自身そう思っているかもしれません。)私たちは皆「偶然」、宇宙における天文学的数値の無作為による偶然の産物(あるいは統計的にある偏りから発生した生命のもつ方向性によって生まれ?)ということになります。人生には目的も意味も重要性もないのですから、この地上で過ごす短い年月の中にしか希望が見出せなくなるのです。(一部引用しました。以下引用))
 「自分に固執していると、やがて行き詰ることになる。しかし神を仰ぎ見ていれば、開放的で、広々とした、自由な人生が目の前に開けてくる。」
 「自己啓発(人生の目的を発見するためのステップ)は、実際のところ助けにはならない。自己犠牲こそが、自分を発見する唯一の道であり、それがわたしの方法である。」
 すべてのもの、ありとあらゆるもの、天にあるものも地にあるものも、目に見えるものもすべて・・いっさいのものがキリストのうちに始まり、キリストの中にその目的を見出すのです。(コロサイ人への手紙1・16)
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