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私たちは、その福音を伝え、そのことによって人々を救いに導き、そして、わたしたち自身が大きな恵みを手にすることができる。
このことは、真理であって、奥義です。
私たち(私)はすでに、キリストを信じることによって、救われ、
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 (マタイ 20:18)
神様のみこころです、すべてが、と牧師は断言なさいました。私は、とてもそうは思えないと感じるのが正直なところです。私は、牧師の説教を通して、自分の解釈に従い、自分の人生に、もしくは他人の生き方に、少しはプラスになるようにコメントすること、しかできません。
ヨブは、良いことも悪いことも感謝することができた。神様の訓練に耐えることで、神様のみこころにかなうものになることができる、ということを知っていた。だから、艱難を喜んで、受けることができた。
「私は、裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」 (ヨブ 1:21 今月の暗誦聖句)
神様なしで、人間は立ち直ることなどできません。見えないところで、神様は支えてくださっている。
東北の方々は、本当に普段から、我慢強く、寒いところでも、皆さん助け合っていらっしゃる。関東の私達のところにこれだけの震災が及んだときに、いったいどうなっているでしょうか。
私たちは限りないほど罪を犯しています。けれども、許され、救われているのに、感謝しない。イエス様の十字架が無駄になってしまいます。イエス様は、十字架に掛かられ、三日間黄泉で苦しまれた。お体は、弟子たちが十字架から降ろされました。しかし、イエス様のみこころは、十字架の上にずっとあったのではないでしょうか。だから、真剣に十字架にお従いするのは、あたりまえのことではないでしょうか。私達クリスチャンはイエス様の福音を伝えること。救われたものは、十字架の話を皆に話し伝えること。私たちは決意しないだけです。
従う気のない人は、最後の審判で裁かれる覚悟を持って、従わなくてもいいのです。しかし、最後の日、神の審判を受けられる人がいると思いますか、いないから・・・・・。燃える炉の中で永遠に苦しみ続ける、永遠に・・・。神様の憐れみなしで、人は一日も生きられることはできないのです。
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
(テサロニケⅡ 4:1~2 3月25日ベタニヤ会)